数え切れないから無限なんだ!数の秘密に真剣に迫る

数学

数え切れないから無限であるのに、なんとか「無限を数えたい」と考えるのは、有限の人間が「神のようになりたい」と考えているのと通じるところがあります。

できないことをやろうとする、不可能な事に挑戦する。

無駄にも思えますが、これはこれで、なんらかの価値を感じます。

 

無限について、あーだこーだと考えていると、実は堂々巡りの無限地獄に落ちてしまうことがあります。

 

ここでは、そんな堂々巡りに落ちてしまわないように、無限について、基本的な部分を整理しています。

 

数えるとは

個数を数えるとは、ある自然数に対応させるということです。

逆にいうと、自然数とは個数を数えるためにあります。

 

みかんが3個あるというのは、みかんの集まりに自然数3を対応付けた結果です。

紙が3枚あるというのは、紙の集まりに自然数3を対応付けた結果です。

ひつじが3匹というのは、ひつじの集まりに自然数3を対応付けた結果です。

 

上記のどの集まりも自然数3に対応がついています。

 

数えるといっても、3個ぐらいは、一目で数え切れますが、

どのようにして自然数3に対応つけたのか、もう少し注意深く考えてみます。

これは、もっと大量のみかんの個数を数える方法を考えれば、一般的に数えるということがどのようになされているのかわかります。

 

箱の中に何個みかんがあるか、それを確実に数え上げるには、箱から1つずつみかんを取り出して、1、2、3、・・・と数える方法がまず思いつきます。

紙の枚数や、ひつじの数であっても、「1枚、2枚、3枚、・・・」、「1匹、2匹、3匹、・・・」と数えることで何枚か何匹かわかるのです。

 

いつ、だれが、どのように数えても同じ自然数に対応がつくことを経験的に認識しているからこそ、個数に意味があるのです。

 

右から数えようが、左から数えようが、

上から数えようが、下から数えようが、

数える順番に依存することなく個数は一定です。

これは、ものすごく重要な事で、この性質があるからこそ個数の意味が便利に活用されるわけです。

 

これが、「個数」は「自然数に対応つけて数えた結果」だということの説明です。

 

この考え方はすんなり受け入れることができる、自然な発想といえましょう。

 

小学校の低学年でなんども数を数える練習をしたと思いますが、それによってこの考え方は身についているはずです。

 

 

当たり前すぎるのですが、この当たり前は有限ならではの性質ですので、改めて再認識した次第です。

 

 

数える対象

数えるとは、自然数に対応つけることの説明をしましたが、数える対象についても注意しなければなりません。

実は数える対象がはっきりしないと数えることはできません。

みかんを数えるときに、半分にわれたみかんがあったり、箱がこぼれているみかんがあったり、腐ったみかんがあったり、潰れているみかんがあったり、成長が未熟のみかんがあったりすると、数えた結果が変わる可能性があります。

それは、数える対象かどうかの基準を明確にすることが重要な事を示唆しています。

サハラ砂漠の砂の数は有限といいますが、実際に何個かどうか数えることはできるはずありませ。

それは、砂が瞬間的に生まれたり、割れたり、粉々になっているはずだからです。

数えるためには、数える対象がはっきりしていないと「数えられない」ということになります。

数える対象がはっきりしているということは、数える対象が「集合」として捉えられているかどうかです。

みかんを要素(元)にもつ集合、紙を要素にもつ集合、ひつじを要素にもつ集合、・・・

じつは、数えるときには、その対象となる集合が存在している必要があります。

 

いろいろな状態のみかん、サハラ砂漠の砂のように、数える対象の砂がはっきりしていない場合は、数えた結果が不安定です。

これでは、数えられるとは言えません。

数える事が、普遍的な量であるためには、その対象つまり集合がはっきりと定義されていなければならないのです。

 

 

具体的に数える例として、みかん、紙、ひつじ、砂をあげましたが、数えることに思考を集中するために、すこし汎用的な例を考えます。

 

というのは、個数が無限である例は、具体的な個体では示せないからです。

 

集合があれば、集合の要素を数えることができます。

 

そこで、これからは集合を大文字のアルファベットで表し、その前に#をつけることでその集合の個数を表す記号を使うことにします。

例えば、ひつじの例だと、

S={ひつじ|柵の中のひつじ}とし、柵の中に3匹ひつじがいるすると#Sは3ということになります。

M={みかん|箱の中のみかん}の場合、#M=5というのは、箱の中にみかんが5個あるという意味を示します。

集合ですから、ひつじが「柵の中のひつじ」かどうか判定する方法が暗に決まっているわけで、「箱の中のみかん」も同様です。

 

 

ここから、だんだん数学的に記法にして、曖昧さをなくしていきます。

たとえば、

A={a,b,c,d,e,f}

#A=6

みたいな書き方を使います。

これからは、数えるとは、ある集合に結びついた自然数ということになります。

#B=8という記述が合った場合,Bという集合があって、その要素が8個あるということと読み解けます。

 

ここで、一歩進みます。

 

 

「数える」ということは、「ある集合があって、その集合に対応したある自然数のこと」と言い直します。

この「ある自然数」を求めることが「数える」と言うこととも言い換えられます。

 

 

 

有限と無限

集合があったとします。その集合の要素の数を数える方法を、再度考え直します。

集合の要素の数え方ですが、

箱の中のみかんの数を数える方法をイメージすれば分かりやすいと思います。

 

箱から、みかんを一つ取り出して、1とカウントします。

さらに、箱からみかんを取り出して、2とカウントします。

このカウントを箱の中にあるみかんがなくなるまで繰り返します。

箱がからになったときのカウント数がみかんの個数となります。

 

つまり、集合から一つ一つ要素を取り出してカウントすることで集合の個数(要素数)を数えるわけです。

 

集合の個数を求める方法を少し厳密に書きました。

この数え方で集合の個数を数えることができるのですが、集合によっていろいろな自然数が個数として求められます。

 

しかし、ここで困ったことが起こりうります。それは、いつまでたっても、数え切れないことが起きる場合が考えられるのです。

ここで集合の個数を数えるということが二つの状態に分類できます。

  1. 集合の個数が数え切れる(有限)
  2. 集合の個数が数え切れない(無限)

でました。無限。

例えば、集合Sとして奇数全体とします。

S={奇数}={1,3,5,7,9,…}

の個数は数え切れません。このように、どのような集合も必ず数え切れるとは限らないのです。

数え切れる集合を有限集合、数え切れない集合を無限集合として分類します。

上で示した奇数の集合は、無限集合で、この場合#Sは無限といいます。

逆に数え切れる集合の個数は有限といい、ある自然数が対応します。

 

無限集合とは、どの自然数にも対応付けられないことを意味します。

 

 

 

無限集合の分類

 

有限集合には、3個の集合、5個の集合というように、さらに細かく分類することができますが、

無限集合をさらに細かく分類することはできるのでしょうか?

 

ここが大問題です。

先に結論を示しますが、分類できるとも言えますし、分類できないとも言えます。

 

え!?分類できない?

ここに引っかかる人は、ある程度数学を習った人と見受けます。

 

無限集合も、いくつかのパターンに分類できるよ、無限といってもいろんな種類がある。

こう考えている人も多いと思います。

 

ひょっとしたら、学校でそのように習ってるのかもしれません。

 

ここまで長々とクドクドと書いた理由はここにあります。

学校で習った事が正しいとは限りませんし、正しい内容を習っても先入観で誤解を生む解釈として理解している可能性もあります。

 

そんなこと「無限の定義によるよ」

まあ、そうです。

ただ、無限をどう定義しているのか、きちんと述べられる人は案外と少ないのかもしれません。

いえ、定義は述べられるのですが、みんながみんな同じ定義で話ているとは限らないのです。

 

無限とは、単に限りがないと考えている人も多いと思います。

そのような人は、実は誠実です。

私と同じです。

 

いや、みんなそうです。数え切れないものを無限といいます。

 

それなのに、なぜ、「無限に種類が・・・」「無限にもいろいろある」といった発想が生まれるのでしょうか?

 

無限は一つの状態を示しているだけです。

数え切れないのを無限と言って、それを承認しながら、さらにその無限を分類したがる理由はなんなんでしょう。

 

 

数え切れないから無限

 

おそらく無限の種類を云々いうのは、数学を勉強した人です。

集合論や、解析を勉強した人が、「無限にもいろいろある」と言ってるのだと思います。

 

そこでのイロイロな無限の考え方もわからなくはないのですが、

 

数えるという観点で言うと、無限は1つだけの概念で十分です。

すなわち、数え切れないものを無限という概念、

ここはぶれません。

 

実数の数が自然数よりも遥かに多いという考え方があったとしても、

それは数えるという点では無です。

実数を数えるということがどういうことかを考えればわかります。

 

みかんの個数を数えるように、奇数の個数を数えるように、実数の数を数えてみてください。

永遠に終わりませんね。

したがって、実数の個数は無限です。

{実数}は無限集合、#{実数}は無限。

これが結論です。

 

数え切れないものはすべて無限。

 

数え切れないものを分類する濃度に疑問

どうしても、数え切れないものをさらに細かく分類したいのであれば、それなにの道具が必要です。

通常、個数を数えるときに使う道具は、自然数です。

自然数を個数として表している限り、無限を複数の種類に表すことはできません。

 

しかし、ここで革命的な発想が生まれました。

数えきれない集合の中にも、区別ができることがあるのです。

 

周知のように知れ渡った濃度の考え方です。

これは画期的です。

ある意味、数えるということを発展させた考え方といえます。

 

数える事については、しつこく説明を書きましたが、濃度については詳しく書きません。

濃度について書かれているサイトはいくらでもあるからです。

 

ここでの目的は濃度の紹介ではありません。

数えるということの原点に振り返り、濃度の考え方をある意味批判的にみることです。

 

念のためんに、前置きしておきますが、

実数は自然数より多いと言うのは、

実数が自然数より高い濃度であるという事を指しているという前提で話を進めます。

 

もし、濃度以外の発想で実数が自然数より多いと考える方法があれば、そればさらなる画期的な発想です。

 

 

ここでよく濃度について考えてください。

もしかしたら、変な先入観で勘違いをしているかもしれません。

実数が自然数より濃度が高いというのは、論理的で私は反論できません。

 

しかし、これは、実数と自然数が1対1に対応するとしたら、矛盾が生じるという事を言っているだけで、

実際に、実数が自然数よりどの程度多いのかについては、なにも示されていません。

実数も自然数も無限集合ですが、両者に1対1の対応があるかどうかで区別しているだけです。

もちろん、この区別は画期的で、数えることの原点にも逆らっていません。

 

自然数で数え切れない集合よりも、さらに大きな数え切れない集合の存在はわかりました。

 

それは、背理法を使って示されました。

実数と自然数が1対1に対応したと仮定矛盾が生じる。

このような論理から生まれた結論です。

 

「実数と自然数が1対1に対応した」という仮定は、

「実数を自然数の個数だけ数え切った」とみなしたと言うことです。

 

この点を、見逃してよいのでしょうか?

 

可能だとしたら、ここを皮切りに新しい数えるという概念が作り出せそうに思いませんか。

 

次回「濃度は数でない」はこの点について、考察します。

 

 

 

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